LASTマトリョーシカ

N島

タイトルをラストサムライっぽく決めてみました!!

皆さんは、マトリョーシカをご存じでしょうか。

おそらく知っていると思いながら記載しております。

マトリョーシカとは有名なロシアの民芸品の人形の事です。

胴体の部分で上下に分割でき、その中には一回り小さい人形が入っています。

これが何回か繰り返され、人形の中からまた人形が出てくる入れ子構造になっているものをマトリョーシカ人形と言います。

入れ子にするため腕は無く、胴体とやや細い頭部からなる筒状の構造である。5-6重程度の多重式である場合が多いとされています。

マトリョーシカという名称は、ロシアの女性名からきています。

皆様もきっと見た事があるでしょう、この画像です。

大きなマトリョーシカの中にそれよりも一回り小さなマトリョーシカが入っており、それが繰り返されます。

我々は一番外側のマトリョーシカを普段見ているので、最大のサイズのマトリョーシカの大きさを知っていると思われます。

けれども、逆に視点を変えて一番小さなマトリョーシカだったとしたら、何が見えるでしょうか?

その答えはそのマトリョーシカを覆っている壁です。

一回り大きなマトリョーシカが覆っているのですから内側から見ると壁でしかありません。

タイトルと何が言いたいかは後述させていただきます。

ひとまず、ここではマトリョーシカがどういう物かとマトリョーシカを外側から見るのと内側か見ると言う事この2点さえ記憶に残していただければと思います。

早速余談マニアとして余談を書きます。

個人的にはモンスター営業と思っているT本さんの記事を読んで、この記事を書こうと思ったのですが、何にインスピレーションが湧いたのかは覚えておりません。

ただ、こういった記事更新をするためには、何かネタがないかなと常にアンテナを張ることになります。

それが「気づき」につながるので、毎日記事をアウトプットしようとするのはいい刺激になると思うのですよね。

なので、ネタ書かなきゃと思っている私がT本さんの発する情報の何かにアンテナが引っかかったと言うことだと思います。

丁度30年くらい前でしょうか。

今でも時折放送されている「世にも奇妙な物語」

このストーリーの第51話に「プリズナー」という話がありました。

プリズナーとは囚人の事です。

まだ、DVDもない時の話で丁度レンタルビデオ店が全盛期の頃でした。

あらすじを書くと下記になります。

巷で噂の謎のビデオ「プリズン」を探す岡本。

「ビデオレンタルナイス」というビデオレンタル屋で廃棄処分寸前のプリズンを見つけ、レンタルし持ちかえる。

部屋でビデオ再生。

すると画面に映る、牢屋に閉じ込めている人物(竹中直人)が「こっから出してくれ」とこちらに話し掛けてくる。

半信半疑で画面に手を差し伸べる岡本。

すると本当に画面の中に引きこまれる。

竹中の指示通り牢屋のカギを開ける岡本。

その後、岡本は竹中に案内されプリズンの世界を堪能するが、 気が付けば竹中直人によって最初の牢屋に閉じ込められてしまう。

そのまま竹中のみが現実の世界へ戻り、ビデオを返却。

ビデオは廃棄処分のトラックへ積まれて行く・・・。

店の看板「ビデオレンタルナイス」の「ビ」と「オ」と「ンタル」のネオンが所々消えて

『デレナイ』に

という話で、ビデオの中の牢屋に閉じ込められてしまい、代わりの囚人が来るまで出れないと言う話で子供心に怖かった記憶があります。

誰かがそのビデオを再生して、再生した人を騙して自分の代わりの囚人にしない限り永遠にビデオの中の牢屋から出れないというホラータッチな話。

閉じ込められる恐怖を描いているのですが・・・

でも、その牢屋の格子を閉じ込められている本人が牢屋の格子を認識できなかったらどうでしょうか?

この話、狭いところに閉じ込められたから怖いのであって、最初からその空間だけが世界のすべて、つまり井の中の蛙だったらどうでしょう。

それが世界のすべてである以上、おそらく閉じ込められていることが自由を奪われたのではなく普通の事になると思うのです。

小学生の頃、飼育委員をやる事になった私が鶏小屋の鶏を外に出して、鶏小屋を掃除していると、しばらくすると鶏は檻に勝手に戻ってきます。

自由じゃないのに何故でしょうか?

それは鶏はそこを巣だと認識しており、鶏にとっては檻ではないからです。

私の認識からすれば鶏小屋は格子がついていて自由ではない監獄に見えましたが。

さて、そう考えた時にですが、我々もよくよく考えると格子が見えていないだけで檻の中にはいないでしょうか?

12年前に私が折り合いのつけ方も分かっていなかった時の事です。

朝起きて会社に行くことが憂鬱で仕方ありませんでした。

何故満員電車にわざわざ揺られなければならないのだと。

経済力がない事がギルティであるため、その贖罪としてこんな拷問受けているのだと解釈しておりましたが。

よくよく考えると、常識的には当たり前のことです。

生きるために、朝起きて満員電車に揺られて決められた時間に会社に行き、仕事をする。

いたって普通の事です。

でも、これは自ら鶏小屋に戻る鶏と同じです。

自分が監獄の中にいる事に気づいていないだけで、実際は自ら進んでプリズナーになっているのです。

本来ならば発想も、行動ももっと自由であっていいはずです。

ところが、今まで生きてきた経験と言いますか、刷り込まれてきた教育という名の洗脳や、これまた刷り込まれてきた常識という名の格子に覆われたところに自ら飛び込んでいると言う事です。

何故、朝起きて満員電車に揺られなければならないのか?

生活するため、給与を受け取るための常識だから?

そうかもしれません、でもそれはその考え方を正しいとする常識、考え方を刷り込まれているだけで自分で考えた答えではありません。

檻を巣だと考えている鶏のように、それを信じる格子の中に自ら入り、自分の知っている世界を狭くして、その狭い範囲で十分自由だと錯誤に陥っているだけだと私は思います。

本来なら、仕組みを作り、好きな時に起きて、好きな時に好きな人間と好きな事をする。

それができる世界も存在しているはずです。

でも、現実の自分はそうではありません。

何故か?

それができる世界を本気で信じていないのと、ある種現状の自分の常識が作り出した監獄の中が居心地がいいのだからかもしれません。

そこにいるうちは目をつぶっていても何があるか分かるからかもしれませんが。

なので、自分が信じる常識は本当に、牢屋の格子ではないか疑ってみる必要があると思うのです。

自由な発想や考え方を最初から否定していないか?

自分を疑う事は、私は結果を起点に考えるようになってからできるようになりましたが、自分を疑えないと間違いにも気づけません。

なので、まずは脊髄が反応するレベルの反射に近い当たり前、常識と自分が思う事を本当か?と疑う癖がある程度必要なのではないかと思っています。

と言っても変わらず私の結果はサラリーマンなので結果を起点に考えるとまだ正しいとは言えない考え方ですが。

ただ、作り出した常識独房の中にいると、やらない理由やできない理由をその監獄の中で探して正当化し、何もしない人になってしまいます。

そんなことをするのは非常識だと常識の所為にして、自己正当化で守る。

ある種その常識という名の牢屋の鉄格子は自分を自由から閉じ込めるものではなく、自分を守ってくれる物に変換されているのかもしれません。

関連した話ですが、先日高校時代の友人と飲みました。

高校時代は全くと言って差がなく、むしろ私の方ができたんじゃないかと思う友人で、彼は1度浪人し、私と同じような大学に入学しました。

ところが彼は就職活動もせず、モラトリアムの延長とアメリカに留学し、現地の会計事務所で3年くらい働き、丁度12年くらい前に日本に戻ってきていきなり超有名財閥に入社し、丁度数か月前転職しました。

私と同じ年で元々のスペック的にはほとんど変わらないのに、年収は私の倍貰っています。

ちょっと前に記載した秦の始皇帝の片腕李斯の「便所のねずみ」の話を思い出しますが、彼とこないだ飲んだ時に面白いと思った話があります。

これも自分の常識がやはり疑わないとならないと思った話の一つなのですが。

それが、アメリカではラスベガス以外で外で飲酒する事は禁止されており、破ると刑事罰を頂戴するそうです。

自由の国で、外で飲酒が自由でなく、24時か2時か忘れましたがそれを過ぎると酒を販売する事自体も禁止だそうです。

だから、日本の電車の中で必ずと言っていいほどアメリカ人らしい人が酒を飲んでいるのです。

本国ではできない事だから。

日本の花見なんかは物凄くアメリカの人からすると希少な体験で、外で昼間から花見をしながら酒を飲めるのです。

これができない事が当たり前だとすると、彼らにとって花見は物凄い良い体験になるわけです。

でも我々の常識からしたら外で飲んだりとか当たり前のことです。

これは逆パターンですが、当たり前というのはこれだけ発想の阻害をします。

海外で外での飲酒が禁止されているかもしれないなんて発想あったでしょうか?

日本の花見なんてことをアメリカでしたら集団逮捕になるわけです。

さて、ここで表題のマトリョーシカの内側から見た壁の話に戻ります。

常識が格子かもしれないと思うと、今自分がいる自由だと思っている場所、その格子で覆われたマトリョーシカの内側の壁は何層目になるでしょう。

子供の頃は一番小さなマトリョーシカの中に居ます

物を知り、小さなマトリョーシカの中から抜け出すと、もう少し大きなマトリョーシカの中で範囲が広がります。

けれども、そのマトリョーシカももう一回り大きなマトリョーシカに覆われており、そこを抜け出すとまた一回り大きなマトリョーシカの中に出る。

永遠に続きそうなプロセスですが、学習し、物を知り、その当時の常識をぶち破る事でもっと行動範囲や発想が自由になる大きなマトリョーシカに出れます。

そして、自分の一人ではそれよりも大きなマトリョーシカの外に出れないと分れば人と協力することでもう一個大きなマトリョーシカの中に出れます。

その内側から見た最後のマトリョーシカはどのくらいの範囲の自由さなんでしょうね。

マトリョーシカを外が変わら見れば最大値が分かりますが、内側から見れば何層も重なった壁。

我々はそのマトリョーシカの内側から外に向かっているようなものだよなとかふと思わされたので記事にしました。

映画初代「エイリアン」のようにマトリョーシカの内側から食い破って本当に自由を手にしたいですね。

T本さんの記事を読みそんなことを思いました。

最後のマトリョーシカから抜け出したい。

そのためにどうするか。

未だに現在私がいるマトリョーシカからの秘密の抜け道を探していますが、まだ見つかりません。

コントローラーのスタートボタンを押してから上上、下下、左右左右、BAとか押してみるかな(笑)

でも私のコントローラーどこにあるんでしょうね。

とノンアルコールながら適当な締めです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました