今日は素面です。
本来ならお酒を飲むと生産性が下がるので一世を風靡した勝間和代氏みたいに禁酒もありかもしれないと思いますが、好きな事をしているならいざ知らず、自らの時間をバーゲンセールしているためそこまで律することができるほど人間はできておりません。
ただ、思うところがありまして今日のネタ
真逆の話ですし、過去に書いたことあるかなとこの営業の会のブログ検索してみたのですが、引っかからなかったので再度記載しようと思います。
京都の竜安寺にあるのは石庭だけではなく、つくばいがあります。
つくばい(蹲踞、蹲)とは日本庭園の添景物の一つで露地(茶庭)に設置される。
茶室に入る前に、手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたもの。
手水で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がある。
画像はこれですね。
上から読むのですが
吾唯足るを知る
中心の水が溜まる部分が漢字の口になっており・・・・
五+口=吾(われ)
左に口で唯一の唯で(ただ)
と読んでいきます。
蹲踞(つくばい)は水戸黄門としても知られる徳川光圀公から送られたもので、お釈迦様の「知足の心」を表しているそうです。
際限なく求めるのではなく、自分にとって必要なもの、必要な量を知る。
そしてその必要なもので満足することを知る、ということだと解釈されます。
大切なのは「自分にとって」の必要を知るということ。
地位や年収、所有しているものなど、他人と比べてではなく、何が自分にとって必要で何が不要なのかをきちんと見極めること。
物凄く良い話ですね。
ですが、今日の私の記事はその真逆です。
己の非才を知ると言うか、不足を知る。
はっきりってパーフェクトな人など存在しません。
ところが、物事を知れば知るほど自分の不足を思い知らされます。
知らぬが仏という言葉がありますが、あれはまんまその通りかもしれません。
知らなければ、自分の状況も問題も知らないままで居続けることができるので、恐れも何もありません。
問題の原因や要因は知らない事、不知にあると以前に書きましたが、問題すら知らなければ問題にすらなりません。
そんなわけで、足るを知るの真逆の自分の非才を知る
そうすることで逆に選択肢が広がるのですよね。
何故かというと、何かをしようとすると色々調べると思うのですが、障壁や解決しなければならない問題の山がある事に気づきます。
それを全部自分でやろうとするので、無理だと思ってしまいます。
すべて調べて学び、実行したらいくら時間があっても足りません。
だからこそ、自分がそもそもすべてはできない事を把握していればできる事だけ自分でやって、できない事や障壁になる事があれば最初から誰かの協力を得るように考えた方が良いと思うのです。
自分でできないのであれば、できる人を探し、できる人も見つからないのであれば、できる人の協力を得られる人を探す。
以前の行動を実行できなかった時の私は全部自分でやろうとしました。
でも、今の私は苦手な事、やりたくないことをどうにかアウトソーシングできないか考えるようにしております。
それも全部自分でできると言う傲慢と言いますか、過剰な発想を捨て、非才であることを認めることから始まると思えます。
ただ、人は結果を起点に考えないと自分の状況を認める事ができないかもしれません。
非才である事を知れば、人との協力関係の重要性を学べます。
なんとなく、そんなことを今日は思わされました。
最近時間がとられるのでお金を払って、youtubeの動画作成をアウトソーシングしていますが、アップしたものの、作り手がどこか他人事なんですよね。
割に合わないのでと先日値上げ交渉されましたが。
実際にアップしたところ、視聴者から編集の悪化を指摘されました。
費用を取って買い手が作成する物より酷いと言われれば私なら発奮しますが、この方がどうするかちょっと気になっております。
提供するサービスのクオリティが自信につながると思っておりますので、一見割に合わない面倒な仕事でもその期待以上のクオリティを提供することで信用関係だったり口コミが広がると思っております。
今、2回目の編集を依頼しておりますが一見割に合わない価格の物を高い質で提供していけば、私がどこかで紹介するかもしれないのですけれどもね。
2回目も質が厳しければ次は仕方がないですが別の方を探そうかと思っていたりします。
発注の仕方は理解できましたので、やはりやってみる事の重要性を再認識させられます。
と最後はまとまりませんでしたが、協力の重要性を日々思い知らされております。
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