「怒り」は出し入れ可能なコミュニケーション手段

T本

ふと、一瞬だけ考えてしまい、なんとなくパソコンを開いた次第です。

 

ついこないだ、私は1カ月だけですが、某クリニックの営業支援にはいり、結果、経営者と喧嘩別れしています。

1カ月、しっかりと業務にあたったのだから、支援料は払ってもらいたいものだが、恐らく無理でしょうね。

喧嘩別れとはそんなもんです。

 

 

 

しかし、あれはあれで、ものすごくタメになりました。
私の人生において言えば、10万円以上の価値があったといえるとおもいます。

 

それほど、めんどくさく、人間というのを疑い、そんな自分もめんどくさいなと思う内容だったのですよね。

 

 

 

話は変わりますが、今現在の社員としての医療コンサルタントとしての仕事で、先輩がクライアントと喧嘩してしまったそうです。

 

なんとなく、二人の会話がかみ合ってないのは前々からわかっていたのですが、「やりあった」 そういう表現を先輩はしていました。

 

結果的には、なんとかまとまったようですが、なかなか激しかったようですよ。

 

 

 

私ならどうか、喧嘩するだろうか、お客さんと。
するかもしれないし、しないかもしれない。
でも、お客さんとはおそらくしないだろうと思う。

 

 

じゃあさっき言っていたことはなんだって?

 

 

たしかにそうです。

 

 

 

つまり、私の場合、会社に所属しているという意識があれば、おそらく喧嘩には発展しないようにする。

なぜなら、会社の看板を背負っているから?迷惑をかけたくないから?

 

 

だから理性という我慢が働くのだとおもいます。

 

 

 

しかし、いざ自営のこととなると、バックになにがあるわけでもなし、守るものもない、理性というリミッターをはずことは簡単でした。

 

今考えれば、キレるか、キレないかは選択できたわけで、突発的ではないと思いました。
キレてもいい相手、キレたほうがいい相手という決断を自分の中でおこなった結果、さあ怒ろう!
といって喧嘩になった感じがします。

 

 

 

なるほどな、「怒る」ということはひとつのコミュニケーションツールだと言っていたのがわかりますね。

 

 

「怒る」ことは出し入れ可能なものなんですって。

 

言われてみればそんな気がしますね。

 

 

きっと先輩も、本当は怒らなくてもよかったけども、自分で「怒る」選択をして喧嘩になった。

 

「怒る」人はそれ以外の手段を知らない人が多いみたいですよ。

 

なるほどな~、これ書きながらなるほどな~っておもいます。

 

 

感情操作、対人コミュニケーションって難しいですよね。

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