百聞は一見に如かずの実体験

N島

過去の記事でも記載していますが、百聞は一見に如かず

この言葉の続きを以前は記載したと思います。

https://topeigyo.work/2019/07/24/百聞は一見に如かずの真実/

ただ、言葉もやはりいくら知っていても自分で体験しないと本当の意味で分からないのだなとインドに行って再認識いたしました。

外国に行って発展途上国の子供を見ると、学べることのありがたさを分かると言われておりますし、よく聞いておりました。

ただ、それも自分の脳内でその映像を自分に置き換えないと本当の意味で理解できないのだなと感じたのです。

インドのショッピングモールの近くでは、信号待ちをしている車に子供が窓をノックしてきて、バラの引換か何かでお金をねだります。

成人でもそういう人は多いのですが、ふと自分が同じ事したらどうだろうと見ていて考えました。

おそらくなのですが、今の私を醸造しているのは所属している社会から学んだ結果です。

だから、バラを引き換えに物乞いをすることが非効率的ですし、生産性がないと考えます。

ところが情報が与えられなかったらどうだろうと考えると、多分私もまったく同じなのですよね。

私もそれしか知らなければ、バラを片手に物乞いを続けると思うのです。

そう考えた時に、今さらですが学べる環境が与えられているのに学ばない事、その怠惰さにちょっと罪悪感を感じました。

過去の記事にも記載しましたが、私の両親は私が見る限りコミュニケーション能力に障害を抱えていました。

ですが、私はその環境で育ったので、それがコミュニケーション障害ではなく普通だと思ってしまっていました。

つまり、そういうコミュニケーション障害になる教育を受けており、必然的にコミュニケーション障害になりました。

でも、私自身はそれがコミュニケーション障害であると気づかないのですよね。

何故なら、知らないからです。

物事の問題のほとんどは知らない事に原因があります。

解決方法を知らない、問題になる事を知らない、気づかない

そう考えると、インドのバラを持つ少年は学ぶと良い事を知らないし、学び方を知らないから学ばないのですよね。

これは恐ろしい事だなと感じました。

永遠に人から物乞いすることしか生きる術を知らないと言うことです。

当然、そういう場にいれば同じような情報を持っている人しかいないので、それが普通で当たり前の教育を刷り込まれます。

結果、その家族の物乞いループが続きます。

日本では大人になれば自分で気づかないと許されない社会になります。

ですが、気づきのヒントはいくらでも与えられておりますし、調べれば大体は答えが見つかります。

ところがインドの物乞い社会ではどうでしょうか?

そもそもヒントが与えられず、情報がシャットダウンされております。

囚人でもないのに囚人よりも酷い自由がある。

移動距離も少ないですし、情報の価値も知らない。

背筋が凍るほど詰んでいる状態です。

我々日本人は放っておいても義務教育があり、最低読み書きとかけ算くらいは誰でもできます。

ところが、インドの物乞いの少年たちは多分読み書きもできないでしょうし、物乞い以外知らない。

読書などの学べる最低限のベースですら与えられない。

こう考えると、日本の恵まれ方は尋常じゃないです。

いつでも学べるし、その気になれば規制はありますが何でもできる。

学べるという環境が与えられているのに、学ばない。

読書もしない。

なんと勿体ないとインドの物乞い少年を見て実体験しました。

そう、絶対的に学べない環境にいる人を見ると、そうじゃない環境の人が学ばないのは飢饉が起きているのに食べ物を腐らせて捨てているように見えてしまいます。

ちょっと前に高評価された映画に「万引き家族」があったかと思います。

すべて他人が捨てた物を拾って作った家族ですが、そこの少年に万引きだけを教えて育てていたので、その少年は万引きしか知りませんし、それが悪だと教えられていないので、そればかりをしてしまいます。

これもステルスエデュケーションといいますか、教育です。

そう考えると固定化したコミュニティだけではこれまた情報が固定化してしまい、学べません。

インドの物乞い少年のコミュニティはそのコミュニティ内の情報しか得られません。

逆に言えば、いつもいるコミュニティだけ、例えば会社と家だけなどだとこれまた学べません。

そう考えるといろんな人と常に会うのは大事だなと思わされます。

多分、私が記事にしても実際に目でその情報がシャットダウンされた社会を見ない限り、読者の方は分からないと思います。

ですが、学ぶという情報や概念ですら与えられていない社会があります。

そう考えると、いま日本でこれを見れる環境にいる方はすべてを与えられています。

否定されるかもしれませんが、それでも自分でどうにかできる環境が与えられているのですから、学びましょう。

読書ができると言う環境と教育を与えられている事は物凄く恵まれている事です。

生涯枯れかけたバラを握りしめ、観光客など相手にノックをし物乞いをし続ける以外生きる術を知らない状態と比較したら、怠惰に罪悪感を感じるレベルになります。

ということで、私も学べることに感謝しながら、学習を加速させようと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました